白鳥の湖(はくちょうのみずうみ)とは | ニジエのエロ用語辞書『大性典』

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「白鳥の湖」のグラン・アダージォ

白鳥の湖

はくちょうのみずうみ

 クラシックバレエ作品の中でもおそらく世界的にも最も有名な作品。この作品に使われるバレエ音楽を指す場合もある。作曲はピョートル・イリイチ・チャイコフスキー。振付には多数の版(ヴァージョン)があるが、代表的な版はマリウス・プティパとその助手イワノフによるプティパ=イワノフ版である。

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物語のあらすじ(四幕構成の例)


 第一幕:中世のドイツの王国で誕生日を祝われた王子ジークフリードはその宴席で摂政である母親から妃を娶って王位を継承するよう言い渡される。成人としての役割を果たさなければならないことを知って憂鬱になった王子は気晴らしに白鳥狩りに行くことを友人に勧められて城の近くの湖に出かける。

 第二幕:夕闇が迫るその湖畔で王子は悪魔の呪いによって昼は白鳥夜は人の姿となる白鳥の乙女たちに出会い、彼女たちの代表である白鳥の女王オデットに一目惚れする。だがオデットは真実の愛を貫く若者と結ばれなければ悪魔の呪いは解けないと打ち明ける。王子とオデットは夜明けまで一緒に過ごし、王子はオデットに永遠の愛を誓い彼女と再会を約して別れる。

 第三幕:やがて城でお妃選びの舞踏会が開かれるが王子はすべてのお妃候補を拒絶する。しかし人間に化けた悪魔ロットバルトとオデットにそっくりな娘オディールが現れ、彼女をオデットと思い込んだ王子は結婚を申し入れる。その瞬間オデットとの誓いが破れ、ロットバルトとオディールは王子に嘲笑を浴びせながら姿を消す。

 第四幕:誓いを破ってしまった王子は湖のオデットのもとを訪れて謝罪し彼女に許されるが、希望を失ったオデットは湖に投身し王子もその後を追って自らの命を断つ。二人の死によって呪いを破られたロットバルトはもがき苦しんで滅び、王子とオデットの魂は天上に召されて永遠に結ばれる。

 このように基本的には白鳥の湖は悲劇的な結末を迎える物語だが、現代ではハッピーエンドに改作されているケースが多い。


白鳥の乙女


 白鳥の湖の物語世界の基盤は夜は人間の姿で昼は白鳥の姿となる「白鳥の乙女」という幻想的なキャラデザインにある。そこには白鳥の湖のロマンティックバレエとして側面が現れている。「幻想的な存在に恋して破滅する」というロマンティックバレエの基本主題に沿ったキャラクター設定であり、「ラ・シルフィード」や「ジゼル」といったロマンティックバレエ作品の幻想的キャラと同じ系統にある。ただ、白鳥の乙女の場合はクラシックチュチュを身にまとっていて、膝の上あたりだったスカートの裾は時の経過とともに次第に上がり、現代では太ももが付け根近くまで露わになっている。そして彼女たちが踊ると、その股間までもが頻繁に露わになり、幻想的でありながらエロティックな要素も兼ね備えたキャラクターに進化を遂げた。

 例えば四人の白鳥の乙女が手をつないで踊る「小さな白鳥たちの踊り」では、彼女たちは舞台を移動しながら上下に頻繁にその躰を揺らすようにして踊る。この上下の揺れによってクラシックチュチュのスカートもふわふわと揺れ、そのたびに彼女たちの白い股間が点滅するようにのぞき見え、濃厚なエロティシズムが撒き散らされる。これなどは釣り上がったチュチュのスカートの裾がもたらした画期的な成果だと言える。

 純白のクラシックチュチュの下からのぞき見える白い股間(ツン)は、言うまでもなくスカートの下から下着が見える現象と同様のインパクトを与える。美しい肉体をもつ女性が自らの股間を観衆に堂々とさらす──当初それはきわめて前衛的で批判の対象となったであろうことも想像に難くない。

 だが、この白鳥の乙女のキャラとしてのエロティシズムは白鳥の湖が長期に渡ってバレエの代表作品として持続しているおかげである種の正当性を獲得している。それはある種の芸術表現上の慣習として受け容れられたものであり、けして観客の性欲を満たすための表現ではない──もし性的な表現に見えたとしたらそれは観客の見方に責任がある、という理屈が成立したのだ。しかしながら、その本質は表現の送り手と受け手、双方の共謀によって芸術の名のもとに許容されたエロティシズムだと言える。


白鳥の女王オデット


 白鳥の湖のヒロインである白鳥の女王オデットは、白鳥の乙女の一人であると同時にそのリーダー=女王であるという設定になっている。それはエロティックでありながら貴族としての高貴さや気品をも兼ね備えていることを意味し、他の白鳥の乙女よりもさらに一段高いエロティシズムの深みが生まれる。

 そして物語の中で王子の恋の対象となることで、オデットの高貴な姫君としての地位はより確実なものとなる。王子に選ばれるような女性なのだから、王族の女子にも等しい高潔な人格と美しさを備えていると見なすことができる。

 それにもかかわらず白鳥の乙女としてのエロティシズムはオデットの属性としてしっかりと維持されている。それは高貴な姫君にあるまじき淫靡さなのだが、彼女が白鳥の乙女のひとりである以上は「やむを得ない」ことなのだ。

 さらに、王子と一緒に踊るパ・ド・ドゥにより、オデットのエロティシズムは拡大する。なぜなら王子の支えによってアダージォ(緩やかな動き)が容易になるからだ。ゆっくりと脚を開き、安定したポーズを保つことができる。その結果、踊りの動きの中での股間の露出が増え、より濃厚な情念を含んだ動きが可能になった。

 また、クラシックダンスの技術の発達によって、バレリーナの股間は白鳥の湖が生まれた19世紀後半に較べて格段に大きく開くようになった。現代ではオデットはアラベスク・パンシェという180度近い開脚のポーズをとることさえ可能になっている。この舞踊技術の発達は結果としてオデットのエロティシズムの表現をさらに豊かなものにさせている。

 パ・ド・ドゥの踊りの動きの中でオデットが股間を露わにするシーンはいくつもあるが、とくに目立つ例を挙げると、王子が片脚で立ったオデットの躰を支えながらゆっくりと独楽のように回転させるプロムナードという動きがある。上体を倒して脚を大きく開いたオデットの股間が完全に丸見えになった状態で、ゆっくりと回転させているその様子はまるで彼女の股間を左右に居並ぶ観客達にまんべんなく見せつけているかのようだ。もちろんそれは意図的なものではないと解釈することもできるが、結果としてはオデットの匂いたつようなエロティシズムが撒き散らされる光景を形作っている。

王子とオデットのグラン・アダージォ(パ・ド・ドゥ


 白鳥の湖の事実上のクライマックス・シーンは第二幕の湖畔で出会ったジークフリート王子とオデット姫のグラン・アダージォ(パ・ド・ドゥ)だ。白鳥の乙女たちに遠巻きに囲まれた夜の湖畔の情景は一種の密室であり、その中で「ふたりきりの時」を過ごすこの踊りは、彼らの恋の情念をその身体の動きによって濃厚に表現したラブシーンだ。他のバレエ作品のパ・ド・ドゥとは明らかに色合いが異なるこのグラン・アダージォは、白鳥の湖独特のエロティシズムがもっとも鮮明に表れた踊りだ。

 本来、パ・ド・ドゥでは男女が幸福そうな表情をして踊っているのが一般的だ。恋し合う男女の踊りであればそうなるのが必然だからだ。だが、グラン・アダージォにおける王子とオデットの表情は悲哀に満ちている。そうした彼らの表情はセックスにおける興奮を強く連想させる。

 クラシックバレエという踊り自体に「こらえ」たり「耐え」たりする要素が含まれていることも彼らの踊りが性的興奮を連想させる大きな要因だ。両脚を外旋させたり、つま先立ちしたりする「肉体の強制的な変形」は辛い。だがその辛さに耐えながら踊る姿が、オルガスムスに向かって突出しようとする欲動をこらえ、「恋し合う自分たち」をすこしでも長く保ちたいともがくセックスの興奮に重なり合う。

 王子とオデットの躰の動きはもはや象徴的なレベルではセックスそのものと解釈してもおかしくない。お互いの股間を重ね合うような露骨な動きはなくとも、オデットの両脚が大きく開いて純白のチュチュの下からその秘めやかな股間が露出される瞬間は、その奥に王子のペニスが突き挿された瞬間であり、深い悦楽が表現されている。それは同時に観衆に秘部を露出する快感、そして観衆がその露出を性的に消費する快感にも重なり合っている。

 王子とオデットは夜の湖畔で白鳥の乙女たちが見守る中、この濃厚な愛の営みを繰り広げる。それはけっして成就しない恋を運命づけられたふたりだからこそ表現できる営みであり、死を大前提としたセックス──生殖から切り離されたメタセックスとしか言いようのない身体と精神の交流行為だ。そして、それは演劇の中で繰り返し演じられることによって体現される、躰を超越した「永遠の愛」の形でもあるのだ。

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