バレエ王子(ばれえおうじ)とは | ニジエのエロ用語辞書『大性典』

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バレエ王子

ばれえおうじ

クラシックバレエにおいて主役のバレリーナの恋人としての役柄を務める王子役、貴公子役のこと。「ダンスール・ノーブル(仏: danseur noble)」とも称される。

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「王子の中の王子」としてのバレエ王子



 王子とは本来は「王族の男子、王(君主)の直系の男性子孫」を指す言葉であり、世界中の国家・民族において、さまざまな王子が存在するが、ここでは「幻想的な物語においてデウス・エクス・マキナ(機械仕掛けの神)的な役割を果たし、物語のヒロインに幸福を約束する人物」としての王子のイメージを中心とする。英語圏ではプリンス・チャーミングと称され、いわゆるベタなキャラ(ストック・キャラクター)の一種として扱われている。クラシックバレエの重要なレパートリーにおいては、とくに「中世の西ヨーロッパを舞台としたお伽話」の登場人物としての王子がヒロインの恋人役を務めるケースが多い。

 有名なチャイコフスキー三大バレエ「白鳥の湖」「眠れる森の美女」「くるみ割り人形」のヒロインの恋人役はすべて王子であり、「ジゼル」「シンデレラ」などにも王子が登場する。また、「コッペリア」「海賊」「ロミオとジュリエット」「マノン」「レ・シルフィード」などの作品でもヒロインの恋人役のポジションの男性は役柄としては王子ではないが「王子風の外見を持った貴公子」として登場することが多い。

 その典型的な「王子風の外見」は、上半身には女性的に刺繍やフリル、擬宝珠などでデコレートされた衣裳、そして下半身に純白のタイツを穿いているという姿である。

 この「バレリーナの恋人役としての王子=バレエ王子」は、ある種のネタとしてよく言われる「白馬に乗った王子様」つまり「女の子の理想の恋人」を象徴するキャラクターとしての王子に極めて近い存在であることは明らかだ。

 そしてクラシックバレエは現代において継続されている視覚的な表現芸術の中でごく当たり前に「ロマンティックな理想の恋人=王子」を物語の代表的なキャラクターとして登場させることができる稀有な表現形式だ。逆に言えば男の子がこのスタイルの王子に扮することのできる最大にして唯一の機会はクラシックバレエという場で与えられる。その意味ではまさにバレエ王子はもっとも典型的な「王子の中の王子」なのだ。


バレリーナの相手役が王子であることの意味


 王子は言うまでもなく王族=最上級の貴族であり、社会的な地位と力と優れた人間性を兼ね備えた典型的なキャラクターとして位置づけられる。それは子供向けのお伽話にふさわしい幻想的な設定で、近現代の小説や映画やアニメーションに登場することは稀だ。だが、既に述べた通り恋愛表現空間としてのクラシックバレエには彼は代表的キャラクターとして登場することが可能になっている。

 そして伝統=時間の積み重ねによって社会から暗黙の許可を獲得したクラシックチュチュ──踊りの動きとともに股間が覗き見える衣裳──を着けたバレリーナと一緒に王子は純白のタイツをはいたその下半身を衆目に曝してパ・ド・ドゥを踊る。この行為はバレエという制約された枠組みがあってこそ成立してはいるが、その枠をはずして観れば、変態的な行為そのものである。

 この変態行為を王子──優れた者と見なされるべき存在──が担うことで生まれる強い背徳感と緊張感が、そのエロティシズムを加重する。もちろん相手のバレリーナがお姫様属性であることも相乗効果を与えていることは言うまでもない。

バレエ王子の白タイツへのコンプレックスと勃起


 思春期のバレエ少年の大多数はバレエ王子の衣裳である白タイツに複雑かつ強烈なコンプレックス(抑圧された衝動・願望)を持つ。その具体的内容はもちろん様々だろうが、代表的な例は羞恥心と自己嫌悪と性的興奮が入り混じった感情だ。そこには白タイツを穿いた自分自身に対する否定と肯定の狂おしいほどの葛藤がある。否定が主であれ肯定が主であれ、その奥には理想の王子様になって美しいお姫様と性的な行為をしたいという欲動──それはいわばセカイ系的な男女の結合さらには原初のオナニズム回帰への欲動──がさまざまなバリエーションをもちつつ蠢動している。

 また、白タイツという衣裳は主にロリ系ないしお嬢様系の女の子が着用するという印象が強いゆえに、それを穿く行為は自分の下半身がそうした女の子の肉体に部分的に転換されたかのような錯覚をもたらす。いわば自分の下半身に男女両性が融合している状態であり、それじたいが相当の性的興奮をともなう体験でもある。バレエ王子の白タイツへのコンプレックスにはこうした背景から滲み出す性的な倒錯もおおいに関係している。

 バレエ王子の白タイツコンプレックスはロマンティックな王子の扮装をしているとき、さらには稽古着として白タイツを穿いているときの性器の勃起状態として表に現れる。とくに小中学生のバレエ少年の場合、白タイツの上からもそれが確実にそうなっていると分かる例は稀ではない。もちろん現象自体は周囲の関係者には暗黙の了解事項として無視されるが、状況を誰もが分かっているという状態を本人も分かっているという自意識の入れ子地獄に曝されることになる。

 本来勃起とは性行為の成立に不可欠の前提条件であり、男性のアイデンティティにかかわる生理現象だが、バレエの枠組みにおいては少なくとも表面上はネガティブな現象ととらえられる。これはバレエ王子にとってはきわめて屈辱的なことだ。女の子と一緒にパ・ド・ドゥを踊る場合にはその屈辱感はさらに深いものになる。相手の女の子が異性の生理現象そのものをどう受けとめるかはケースバイケースだろうが、いずれにせよ自身の性的興奮を読み取られた状況で踊りへの集中力を維持するためには相当な精神力が必要となる。だがこの屈辱感に耐える精神力がバレエ王子にある種の後天的な高貴さを賦与する可能性もある。


バレエ王子と概念的な恋愛表現


 クラシックバレエという演劇空間において、バレエ王子は恋愛を概念的に表現する人物として機能する。ちなみにこの文脈における概念的という意味は「具体的ではないが、恋愛感情に裏打ちされていると読み取ることは十分に可能な表現」というほどのものだ。

 この概念的な恋愛表現の主要素としては、パ・ド・ドゥにおいては以下の三点が挙げられる。

 1自身の美しい姿、振る舞いを見せる
 2肉体的な接触を通じてお互いの親密さを表現する
 3相手と協力して難度の高い身体的な動作を実現する

 1と2に関しては、バレエ王子は理想的といっていい立場にある。なぜなら、バレエ王子は踊ることがその行為のすべてであるため、言語によるコミュニケーションがなく、また日常的な行為からも切り離されている。しかも振付に沿った動作であるために、その行為と本人の自由意思にはほとんど関係性がない。逆に言えば、バレエという枠組みに「強制」されているがゆえに、日常世界ではけっして起き得ない、過剰としか思えないような恋愛表現に専念できる。

 また、最後の3に関しては踊りという行為独特のものだと言える。もちろん男女が組んで踊ること自体が恋愛感情に結びつくとは限らないが、踊りが成立するためには相互の肉体的な能力に加えて精神的な結びつきは必須となる。とくにクラシックダンスというきわめて制約そして、それゆえに目標とした水準が達成された場合には自動的に「お互いの存在価値を確かめ合う」ことにもつながる。これは一般的な恋愛においても重要な要素だが、バレリーナとバレエ王子のパ・ド・ドゥにおいては表現形式の極端な絞り込みによって、濃厚な幻想が醸成されているのである。


バレエ王子の白タイツがもたらす効果


 バレエ王子のアイデンティティである白タイツ(もちろん白タイツはあくまで多数派であって、黒タイツとかもあるが)は、王子の股間の男性器の存在を鮮やかに提示し、彼が男性であることを主張する一方、その性が現実にはスポイルされていることを示唆する。

 バレエの演劇空間の呪縛下にある王子は、本来の意味で性的に「行為」すること、具体的には射精することができない。現実には踊っているバレエ王子が勃起状態にあることは稀ではないが、それは観客との間で共有されるコンテキスト(文脈)上は無視される。だが、白タイツに包まれ抽象的にスポイルされたそれは、その一方で男根そのものの抽象物としても機能する。

 射精しない男根は言い換えるならクリトリス化されたペニスだ。そして付け根にこの擬似クリトリスをもつ王子の二本の脚は拡大された陰唇と見ることもできる。陰唇とクリトリスとペニスが共存──それは王子の下半身を一種のアンドロギュヌス(ふたなり)に変容させている。このありようは、ペニスを受け容れることを拒みながらペニスの所有に対する羨望を抱き、クリトリスを中心とした性に執着している者にとっては理想的な形態かもしれない。一方、ペニスを自己の体内に受け容れるべき対象ととらえている者は矮小化したバレエ王子のペニスは唾棄すべき変態的なイメージと見ている可能性もある。

 だがクリトリス化されたペニスだからこそ、王子はバレリーナとのパ・ド・ドゥにおいて象徴的なセックスを担えるともいえる。クリトリス化されたペニスには射精できなくとも王子が性的な快感を重ねていると観衆が想像する余地がある。特にクリトリス的な快感を王子が享受しているという幻想は女性に「効果的」に作用するだろう。クリトリス的快感を王子が担う一方で、ヴァギナ的快感はバレリーナが担う。パ・ド・ドゥにおいてペニスをもつのは観衆であり、観衆が幻視の視線というペニスによって踊る二人を犯す──これがバレエという演劇的空間における象徴的セックスのかたちなのだ。


バレエ王子の性的な自己回復


 相手役のバレリーナの股間も王子の股間と同様に、けっしてペニスによって受精することのない象徴的女性器として、観客に繰り返し呈示されては消費されるが、バレリーナと王子において決定的に異なるのは、性的欲望の対象として観客に消費されることに対する意識である。女性であるバレリーナは、不特定多数の者から消費されることに「慣れて」いる。それは「消費される性」としての属性に「慣れて」いるのであり、消費されることそれ自体が自我の一部になっていると言ってもいい。

 だが王子は男性であり、本来は消費する側=行為する側の性である。性的欲望の対象となって消費されるという状況は、いわば精神的なレベルで輪姦されているようなものだ。もしバレエ王子が性的な自己を回復する余地があるとするなら、それはバレリーナとの性的な交わりを部分的な形ででも実現し、それを観客に「消費させる」側に回るという方法ぐらいだろう。それを自己実現の手段として受け入れるパートナーに巡り会えたなら、バレエ王子は真の「王子」として理想的な恋愛行為の当事者になれるかもしれない。


「男の娘」としてのバレエ王子


 白タイツを穿いたバレエ王子(とくに小~中学生程度の少年)は一種の「男の娘」として捉えることも可能である。白タイツは世間一般的には「ロリ少女」ないし「お嬢様系」が穿くものという印象が強いため、体型の整った少年がフリルや刺繍でデコレートされた衣裳を着け、下半身に白タイツを穿いた姿は一種の女装に近いインパクトがある。これは本人にとっても同様であり、それゆえに「自分の女装モドキを他者に観られている」という自意識のたかぶりは強烈になる。

 しかも、白タイツによって股間に男性器の輪郭をあらわにしつつも衣裳全体はあくまでも女装の雰囲気を醸し出しているため、「ふたなり」ないし「男性器が生えている女の子」とも捉えられる。この性的な境界線上で羞恥と自尊心の葛藤にさいなまれるバレエ王子は萌え対象の「男の娘」としてはまさに理想的な立ち位置にあると言える。

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